昨日は午前中、ちょっとした心配事などもあって気持ちが落ち着かなくて、
気分転換に少し出かけました。
といっても行くあてがあるわけではなく、なんかこの気持ちを晴らすものは
ないだろうか、と思って本屋さんに行きました。
ですが、所在無げに店内をぶらつくだけで、何か目をひくものがあるわけでは
ありませんでした。
結局ほどなく家に戻り、メール返信したり、FAX送ったり、こまごましたこと
から手をつけ始めました。
そうするうちに、なんとなく調子が出てきて、仕事になりました。
気分転換もとても大切ですが、解決策をむやみに外側に求めるだけでは、時間の
無駄になることもありますね。
答えは自分の中に本当はあるわけだし。

子どものやることから、自分のパターンをまざまざと見せつけられます。
はっきり「NO」と言えないところ、誰にでもいい顔しようとするところ、
強い気持ちで物事に向かえないところ、など、自分の中でどこかで気には
なっていたけど放置してある部分を、子どもがいろいろやってくることで
浮き彫りにしてもらえます。
そんな時、まず腹立たしく思ってしまいます。自分の弱点を子どもの姿を
通して見せられるからでしょう。
そのあと、がっくりと落ち込みます。俺がこんな風だから子どもも同じように
なってしまうんだ、と。
そこから先は、自分で勇気を持って変えていくしかありません。
その勇気を振り絞ることができるか。
子どもが教えてくれています。

やりたい仕事、やりたいことなど、何か目指すものなどがわからない、あるいは
時にわからなくなる、というようなことは自分も含めて多くの人が体験している
ように思います。
そんな場合、どうしたらいいのかなあ、と悩みます。
そんな時、自分が何をしているときに喜びや楽しさを感じるか、または何をしたら
誰かが喜んでくれたか、役に立ったか、ということを思い出します。
僕の場合、子どもの頃に人前で歌ったり発表したりすることが好きでした。
その時の自分の高揚した状態、聴いている人が喜んでくれた感覚を、今でもどこか
で覚えています。
今、歌やFPで何かを伝える、分かち合うことがそこにつながっている実感があります。
たまたま自分はそうだっただけで、人によって何かあるような気がします。
そんな感覚を大切にしていれば、自分の源を忘れずにいられるように思います。

昨日はプロ野球観戦に行きました。
岐阜で何十年振りかの巨人戦開催らしく、親にチケットを一枚もらいました。
日本のプロ野球観戦はは10年以上前にしか観ていませんでした。とても久しぶりです。
いろいろ感じたことはあったのですが、最も印象に残ったことを書きます。
試合展開は7回表まで0-0。7回裏に巨人が均衡を破って先制点を取りました。
スタンドは沸きに沸いて、ものすごく盛り上がりました。
それまで両チームとも凡打の山を繰り返していただけに、騒ぎも一段と大きかったようです。
例え3割バッターでいつもヒットを打っていても、凡打するとため息つかれ、やじられます。
好投手でも、点を取られてたまたまその日ノックアウトされれば非難されます。
ファンなんて勝手なもので、お金払って応援してるんだから当然でしょうが、好き勝手な
立場で観ています。
そこで昨日、先制点を挙げたときの大歓声。
何万人もの観客の笑顔、よろこび。
そこまで非難されまくっていても、この一打のために、アマチュアの僕らには分からない懸命な
努力を惜しまない、といっても過言ではないと思います。
結果が出なければ責められ、結果を出せば称賛の嵐。その立場にいる人しか分からないと
思うけど、いつも瀬戸際の危機感に打ち勝てる存在が、本当のプロなのでしょう。
何よりも昨日、印象的だったのは、たった1点の先制点をあげたときの、観客の喜びでした。
こんな喜びを与えることができるのなら、たくさん給料もらっても全然おかしくないなあ、
と実感しました。
今日はばかばかしいほど当たり前のことを書いていますけど、実際観戦に行って体験した
感覚は鮮明でした。

子どもたちが通っている学校で起こる問題を、時々子どもや知り合いの親さん、先生から
耳にします。
問題の多くは、弱いものいじめのように思います。
多少血気盛んでやんちゃだったり、若気の至りで無茶をするくらいなら救いようがありますが、
どうやらそんな可愛げのあるものではないようです。
みんなで一人をいじめる、無視する、ひどい言葉でののしる、先生も手をつけられず、いつしか
問題行動寄りのことをするのがファッションになっていく、極端に言うとそんな印象です。
なんというか、よい、悪いの境がなくなっている、善悪の区別がつかなくなっているような
気がします。
例えば同級生にひどい言葉を浴びせられたとすると、それは大人の世界なら、誹謗中傷で訴え
られてもおかしくないようなことです。
いいのか悪いのか、基本的なことが判断できないまま、傷つけ傷つけられる子どもたちを
どうしたらいいのかわかりません。
大人として、自分の身を正し、生き方を子どもに伝えていくしかありません。

先日、ある身体障がい者の方とお話しする機会がありました。
身体的に不安を持っているので、今後どのように暮らしていくのか、金銭的に
どのように対策をとっていけばいいのか、真剣に考えておられるように思います。
気付いたことは、とても当たり前なことですが、自分は今まで身体に障がいを
持ったことがないので、その人の立場にはどうしてもなれない、ということです。
なので、お話を聞いてできることを100%させていただくしか方法はありません。
世の中にはいろんな立場や経験、生い立ちや仕事をしている人がいるわけで、
自分はそれら全てと同じ経験を持っているわけではないし、経験していないから
その人の気持ちや立場が理解できないことも必ずあると思います。
ただ、一つ言えることは、相手の感情を感じることはできる。喜怒哀楽その他、
どんな気持ちでいるのか、それを感じることができるとしたら、自分にも感情は
あるものだから、幾分相手の気持ちや立場を、一部でも受け取ることができるかも
しれない。
感情を感じるためには、自分の心をニュートラルにしていないとできませんね。

「覆水盆に返らず」とはよく言ったものですね。
自分が今までしてきた失敗や、迷惑をかけてきたこと、全てのことは元には
戻らないですよね。
そのことによって背負った荷物は、どんなかたちかはわかりませんが、少なくとも
自分の中では背負いながら生きていくしか方法がないように思います。
それも運命と、起こったことを全て受け入れていく、ということなのかなあ、と思います。
こんなはずじゃなかった、とか、自分は悪くない、と思っていると、事実をしっかり
認識することはできないけど、出来事として起きたことは、ゆるぎない事実なんだ、
と受け入れないと、気持ちが宙ぶらりんのままになってしまうような気がします。
目を背けたくなるような、頭を抱え込むようなことも、自らに必要として起こったこと
だと直面しないといけないなあ、と思いました。

四面楚歌の四面って、たぶん「左右前後」だと思うんですが。
どこを向いても埒があかない、身動きが取れない、どうしようもなくて立ちすくむ、
そんなことも自分には時にあります。
そうしたら、上か下に行くしかないなあ、と気付きました。
いつもの何割増しかのパワーでジャンプし、様々な問題を乗り越えるもよし。
あるいはいったん下にもぐって、初心から、原点からやり直すもよし。
いずれにしても、自分の視点や立ち位置を変えることで、問題の景色が変わると
いうことじゃないか、と感じます。

外食の時、マイ箸を使っていますが、初めて食事する人たちの前でマイ箸を出すと、
時には軽く「シラッと」した雰囲気になることがあります。何とも言えない戸惑い、
変わったことを一人だけやっている、という感じ、などいろんなものが混じった
不思議な雰囲気です。
でも同じ人の前で次の機会にマイ箸を使うと、一回目とはまた違った反応です。
相手ももうそれに対して準備できている、という感じで、あまり特別視はされなく
なります。
相手が認知すると、とても楽です。
自分が間違ったことをしているのはもってのほかですが、何か行動に移すとき、
周りの反応が気になるし、否定されているのでは、という感覚によく陥ります。
でもそれは、ほとんどの場合が相手に受け止める準備ができていないだけで、臆せず
実践すればそれが認知させるようです。

昨日は馬場俊英のコンサートに初めて行きました。
彼の歌は大好きで、メロディは分かりやすく、詞は共感できるものばかりです。
会場にはおそらく、僕なんかと同じ世代の人がいっぱい来ていて、みんな何か共感
する部分があるんだろうなあ、と感じました。
馬場さんの歌を聴いていると、心の中にある様々な思いを極めて率直に伝えようと
している思いを感じます。もちろん歌にして多くの人に聴いていただくのだから、
作り上げる段階で洗練していくとは思いますが、根本にあるメッセージに、彼の
あたたかい人柄で一包みして、聴いている側にスッと自然に入ってきます。
自分の中の思いを伝える、という視点だけでなく、相手の立場に立って、あるいは
自分を客観的にみるという角度も加わっているので、共感が得られるんだなあ、と
思います。
どんなことでもそうだと思うんですか、自分の思い、相手の視点、それと第三者の
視点から見たときに、自分の感情やある出来事の全体像を把握できるし、みんなと
共感できるんでしょうね。
僕は極めて主観的な人間なので、学ぶ点は大きかったです。

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